2007年12月14日
摂関政治について何を思いますか
摂関政治について皆さんはどれぐらいの知識をもっていますか。
摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態である。
律令では、太政官が奏上する政策案や人事案を天皇が裁可する、という政策決定方式が採られていた。すなわち、天皇に権力が集中するよう規定されていたのであるが、摂政・関白という天皇の代理者・補佐者の登場は、摂関家が天皇の統治権を請け負い始めたことを意味する。
摂関政治が確立し始めた9世紀後期から10世紀初頭にかけては、国外へは鎖国主義を採り、国内でも蝦夷侵略がほぼ集結するなど、国内外に大きな脅威がなくなり、国政も安定期に入っていた。そのため、積極的な政策展開よりも行事や儀式の先例通りの遂行や人事決定が政治の中で大きなウェイトを占めることとなった。また、公的な軍事力が低下する反面、摂関家は、武力に秀でた清和源氏を家来とするなど、軍事力の分散化が見られ出した。
摂関政治の登場も上記の歴史的な流れの中で説明が可能であろう。すなわち、国政の安定に伴い政治運営がルーティーン化していき、天皇の大権を臣下へ委譲することが可能となった。その中で、うまく時流に乗った藤原北家が大権の委譲を受けることに成功し、その特権を独占するとともに、独自の軍事力を保有するに至った。
摂関家が統治権を握ることにより、他の家系は出世の見込みがなくなり、特定の業務を担当することで貴族としての生き残りを図っていった。
ただし、それは摂関政治に代わった院政に関しても同じ事が言える。院政の形態は存在しなくても律令政治初期の頃から、上皇が「天皇家の家父長」として天皇の保護者・後見者を担ってきた。摂関政治ではそれが父系から母系に移り、院政で再び父系に移ったと考えることも出来るのである(藤原良房の権力掌握開始が家父長的権力を有した嵯峨上皇の崩御に始まり、宇多法皇が家父長として背後にあった醍醐天皇の時代に一時摂関政治が停滞し、久しく絶えていた家父長的な上皇の復活である白河上皇が摂関政治に代わる院政を開始した事は偶然では決して片付けられないものである)。
また、国政の安定を背景に、権力の分散化も顕著となっていき、例えば、地方官の辞令を受けた者から現地の有力者へその地方の統治権が委任されるといった動きも見られた。この動きが、ひいては鎌倉幕府・武家政治の成立へつながっていく。【ウィキペディアWikipediaより引用】
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